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長滝白山神社の由緒


 養老元年 ( 717 ) に泰澄大師により創建されたと伝えられる白山信仰の美濃馬場 (みのばんば)。
長滝白山神社には、白山を開山した泰澄大師が、美濃と越前と加賀にそれぞれ馬場を開いたという伝承 ( 「此処ニ社宇ヲ造営シ、彦火々出見尊ヲ祀リ白山七社ノ一社トシ、供奉ノ僧坊ヲ造立セリ」長瀧寺真鏡 ) が残されており、美濃馬場についても、他の馬場(越前馬場、加賀馬場)と同じ時期に開設されたと伝えられ、美濃国神名帳に記述が残る正三位小白山明神が現在の長滝神社に比定されると考えられています。

 平安時代の治安元年 ( 1021 )、後一条天皇の御世に、勅によって国家鎮護の祈祷所の官符を授かり、その後平安末期から鎌倉初期にかけて白山信仰は大いに盛んとなり、泰澄大師の霊験を核とした教団が組織され、美濃馬場である長滝においても大勢の「白山まいり」の人たちが訪れる場所となりました。

 寿永二年(1183 )木曽義仲は、平家との倶利伽羅峠の合戦の前に、この地で「北國第一の霊峰」である白山を遥拝し、三馬場に対して白山妙理権現に願書を奉納し、源氏の勝利を願って神に奉りました。 ( 源平盛衰記 )

 また、奥州の地に仏教の楽土を建設した藤原氏は白山信仰への崇敬が厚く、白山三馬場に対して鰐口などを寄進され、石徹白中居神社には虚空蔵菩薩像を奉納しています。文永七年 ( 1270 ) には 「藤原秀衡寄進ト申伝」鐘楼が建築されましたが、これらは明治の三十二年 ( 1899 )の火災により焼失してしまいましした。

 鎌倉時代の最盛期には六谷六院満山衆徒三百六十坊と称され、その神領域は旧高山市を含む飛騨の国の西半分一万三千石であったと伝えられています。
 その後、文永八年 ( 1271 ) には、長瀧寺が火災で炎上し、一時空白期があったものの、その復興には気良庄の惣政所行兼が尽力し、正和年間 ( 1312~16)頃 には壮大な社殿・大講堂を再建し復活しました。また、応安六年 ( 1373 ) には天台宗延暦寺政所から「往古の別院」であることが認められ天台別院として位置づけられ、広大な領地から数多くの寄進がなされるようになり、東海地域の寄進者も増え白山中宮長瀧寺の盛隆期を迎えました。

 室町時代、十五世紀後半には美濃禅定道を通り多くの参詣者が行き交うようになりましたが、十六世紀に入ると在地領主による荘園横領が日常化し長滝の経営は不安定となり、さらには戦国期に入ると、北陸一向一揆の影響もあり、越前通路を巡り朝倉氏の郡上侵攻が起こったが、本願寺との和睦により難なきを得、一旦は収まったかに見えたが永禄二年 ( 1559 ) には
郡内での内乱(東殿山合戦) により、一山衆徒も巻き込まれ、長滝寺は土台のみを残して悉く破壊されました。

 永禄十年(1567)に織田信長が美濃を制圧すると、翌年、74歳の道雅法印が岐阜城に赴いて信長に拝謁、長瀧寺の既得権保護の制札を受けています。長瀧寺は戦国時代を乗り切り、明治の神仏分離の際も、加賀白山寺、越前平泉寺が廃寺となる中、長瀧寺と長滝白山神社に棲み分けることで、法灯を今に伝えているのであります。

 江戸時代には、幕府の宗教統制である寺請制度・本山末寺制度により寺社管理が厳しくなり、その影響は長滝にも及び、古来より天台別院、延暦寺常行堂末であったが、ここから東叡山寛永寺の末寺へと変わり、幕府の支配を受けることとなった。
寛保三年 ( 1743 )には、白山の権益をめぐって越前の平泉寺から訴訟があり、白山信仰のすべての権益は、平泉寺に帰属することとなった。

明治以前は白山中宮長瀧寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称していましたが、明治の神仏分離 令(※1)により、境内地を長瀧寺と長滝白山神社に切り分けることにより、幸いにも同一境内に残され、神仏習合の当時の様子を今に残すことができました。

​木像沙弥行兼座像

応安六年(1373)延暦寺政所下文

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